Friday December 09 2016 category:日記
幸せな人生
大好きな『赤毛のアン』シリーズのどれかで(どのタイトルだったかは忘れちゃうあたり…)、アンの
ちょっとしたことでも、有頂天に期待し、天上まで舞い上がり、期待が外れて地上にドスンと落っこちてきてがっかりする
というような性質をマリラが心配するのです。
そんなにしょっちゅう期待が外れて胸がやぶれる思いをする人生は大変だ(つまりはもっと地を見て生きなさいみたなこと)、と。
でも、アンはそれからだって、なんにだって、すぐに有頂天になってはドスンと落ちたり、夢見たとおりになってうれしく過ごしたりしてたのです。
作者のルーシー・モンゴメリは、そんなアンの生き方は、傍から見たらつらい人生に見えるかもしれないけれど、本当は誰よりも豊かな人生なのだ…のようなことを書いています。
…たしか(笑)
いやー書名が思い出せないので(年寄り)、正確な引用ができません。
本にあたってみて、違っていたらごめんなさい(;´・ω・)
子供だった頃、この意味が全く分からなかったのですよね…
子供って、多かれ少なかれ、アンのような性質を持っているのじゃないのかしら。
だから、アンのありようはすごくよくわかるのだけど、マリラは何を心配してるのかと思っていたのです。
なにもわかっていないおばさんなんだなあって。
大人になってみて読み返してみると、マリラの心配もわかります。
大人は子供のころに味わった悲しいことの数倍は、つらい出来事を味わっているわけです。
マリラはいくつもつらい出来事を乗り越えてきた、大人の女性です。
マリラは何も日々起こるささやかな出来事に一喜一憂することを心配しているわけではなく、こんなにも感受性が強かったら、本当の不幸に耐えられないのではないか、と心配したのではないかと思うのです。
親に理不尽に怒られた…信じてもらえなかった…というのは、今思い返しても(子供のころのままの私が)つらかったよ、悲しかったよ…などと訴えかけるわけですけど、その後に味わった両親との死別に比べたら、較べるべくもありません。
(いや、両親はものすごく若くして亡くなったというわけでもないですし、もう治らないとわかっていた病気を抱えていて、闘病の果てに亡くなったので、ある意味覚悟はしてたんですけれども)
近しい人の死、というものを、本当の意味で乗り越えることは無理なんじゃないか…という気が最近してきました。
確かに、時間は悲しさや衝撃や苦しみや辛さを鈍麻させてくれます。
でもそれは、傷をかさぶたが薄く覆った状態なだけであって、その下には相変わらず傷が残っている。
なにか、ほんの少しの衝撃で傷がぱっくりと開いてしまったり、開かないまでも疼くような痛みに襲われたりする。
そんな状態じゃないかなあ…と思うのです。
父母が亡くなってもう数年は経ち、遺影や位牌を見て涙が止まらなくなるといったことはなくなりました。
ほんの些細なことに涙が止まらなくなって、数日間涙が流れっぱなしということもなくなりました。
でも、不意打ちのように「残された人の苦しみ」にぶつかると、それがフィクションだろうがなんだろうが、悲しくて苦しくて涙が止まらなくなるのです。
幼いころ、大好きだった祖父母が亡くなりました。
悲しくて悲しくて、胸も裂けるかと思いましたが、裂けることもなく大人になりました。
それは父母の存在のおかげなのだと、最近しみじみと思います。
私がどんなでも、どんな娘でも、どんなことをしても、父母は最後には必ず許してくれました。
(もちろん、めちゃくちゃ怒られたりもしました)
絶対的な愛情を与えてくれたのです。
本当の意味でひとりぼっちになることはなかった、幸せな人生でした。
(過去形…?)
もちろん、夫の愛情を疑ったことはありませんし、私も夫への愛情を失ったこともありません。
いや、『何してくれるんじゃわれー!!!!』と思ったことはあります、多分向こうも(笑)
愛情というよりかは、もう惰性的なものが多いのかもしれませんけれども(笑)
死ぬまでこのままかな~?とも思いますけど、でも、互いに身勝手なことばかりしていたら、こんなのんびりした生活は続かないだろうというのはわかります。
夫婦間の愛情って、親子の愛情とは種類が違うのです。
それから、なんだかんだ言って、両親である私たちを子供なりに愛していてくれることも、なんとなく伝わります。
それにしても親になって感じるのは、子供の親への愛ってずいぶん身勝手なんですよね(笑)
でもそんな身勝手さにまったくかかわりなく、親は子供をひたすら愛しています(笑)
って考えていると、その無償の愛ってやつを、私はただひたすら享受する側から、与え続ける側になったんだ…ってわかるんですけれども、受け取れなくなったことをさびしく感じるのです。
うわー、私、こんなおばさんになるまで、親離れできてなかったんだな!とびっくりです(;-ω-)
いや、でも、とりあえずかさぶたができるくらいまでは乗り越えてきたんだから、普通じゃない?と思ってみたり。
そんなことを考え続ける昨今だったのですが、こんなことをぼんやり考え続けていられる私って、今、ものすごく幸せなんだなあ…と、昨日突然思ったのです。
今も私を大切に思ってくれる夫と、ごくたまーーーーーにかわいい態度(笑)の子供に、妹たちに、友達に、親戚に、ありがとう。
すべての愛情の源を与えてくれた両親に、ありがとう。
以上はどれもこれも『今の私の個人的な体験と考え』です。
いや、人生はそんな甘いもんじゃないし、死とか軽々に扱うな!とか、いい歳したババアが何語ってんの?とか思われたら申し訳ありません…
どうしても今、両親の死について考えたことを書いてみたかったのです。
突然こんな人生振り返って、もしかして死を覚悟してるの?なんか病気でも?と思われた方が、もしいらっしったら…
まったくそんなことはありませんので、どうぞご心配なく(*´ω`*)
むしろ、今まで抱えていたつらい気持ちを吐露して、すっきりした気分です。
だらだらした文章をここまで読んでくださいまして、ありがとうございました。
ちょっとしたことでも、有頂天に期待し、天上まで舞い上がり、期待が外れて地上にドスンと落っこちてきてがっかりする
というような性質をマリラが心配するのです。
そんなにしょっちゅう期待が外れて胸がやぶれる思いをする人生は大変だ(つまりはもっと地を見て生きなさいみたなこと)、と。
でも、アンはそれからだって、なんにだって、すぐに有頂天になってはドスンと落ちたり、夢見たとおりになってうれしく過ごしたりしてたのです。
作者のルーシー・モンゴメリは、そんなアンの生き方は、傍から見たらつらい人生に見えるかもしれないけれど、本当は誰よりも豊かな人生なのだ…のようなことを書いています。
…たしか(笑)
いやー書名が思い出せないので(年寄り)、正確な引用ができません。
本にあたってみて、違っていたらごめんなさい(;´・ω・)
子供だった頃、この意味が全く分からなかったのですよね…
子供って、多かれ少なかれ、アンのような性質を持っているのじゃないのかしら。
だから、アンのありようはすごくよくわかるのだけど、マリラは何を心配してるのかと思っていたのです。
なにもわかっていないおばさんなんだなあって。
大人になってみて読み返してみると、マリラの心配もわかります。
大人は子供のころに味わった悲しいことの数倍は、つらい出来事を味わっているわけです。
マリラはいくつもつらい出来事を乗り越えてきた、大人の女性です。
マリラは何も日々起こるささやかな出来事に一喜一憂することを心配しているわけではなく、こんなにも感受性が強かったら、本当の不幸に耐えられないのではないか、と心配したのではないかと思うのです。
親に理不尽に怒られた…信じてもらえなかった…というのは、今思い返しても(子供のころのままの私が)つらかったよ、悲しかったよ…などと訴えかけるわけですけど、その後に味わった両親との死別に比べたら、較べるべくもありません。
(いや、両親はものすごく若くして亡くなったというわけでもないですし、もう治らないとわかっていた病気を抱えていて、闘病の果てに亡くなったので、ある意味覚悟はしてたんですけれども)
近しい人の死、というものを、本当の意味で乗り越えることは無理なんじゃないか…という気が最近してきました。
確かに、時間は悲しさや衝撃や苦しみや辛さを鈍麻させてくれます。
でもそれは、傷をかさぶたが薄く覆った状態なだけであって、その下には相変わらず傷が残っている。
なにか、ほんの少しの衝撃で傷がぱっくりと開いてしまったり、開かないまでも疼くような痛みに襲われたりする。
そんな状態じゃないかなあ…と思うのです。
父母が亡くなってもう数年は経ち、遺影や位牌を見て涙が止まらなくなるといったことはなくなりました。
ほんの些細なことに涙が止まらなくなって、数日間涙が流れっぱなしということもなくなりました。
でも、不意打ちのように「残された人の苦しみ」にぶつかると、それがフィクションだろうがなんだろうが、悲しくて苦しくて涙が止まらなくなるのです。
幼いころ、大好きだった祖父母が亡くなりました。
悲しくて悲しくて、胸も裂けるかと思いましたが、裂けることもなく大人になりました。
それは父母の存在のおかげなのだと、最近しみじみと思います。
私がどんなでも、どんな娘でも、どんなことをしても、父母は最後には必ず許してくれました。
(もちろん、めちゃくちゃ怒られたりもしました)
絶対的な愛情を与えてくれたのです。
本当の意味でひとりぼっちになることはなかった、幸せな人生でした。
(過去形…?)
もちろん、夫の愛情を疑ったことはありませんし、私も夫への愛情を失ったこともありません。
いや、『何してくれるんじゃわれー!!!!』と思ったことはあります、多分向こうも(笑)
愛情というよりかは、もう惰性的なものが多いのかもしれませんけれども(笑)
死ぬまでこのままかな~?とも思いますけど、でも、互いに身勝手なことばかりしていたら、こんなのんびりした生活は続かないだろうというのはわかります。
夫婦間の愛情って、親子の愛情とは種類が違うのです。
それから、なんだかんだ言って、両親である私たちを子供なりに愛していてくれることも、なんとなく伝わります。
それにしても親になって感じるのは、子供の親への愛ってずいぶん身勝手なんですよね(笑)
でもそんな身勝手さにまったくかかわりなく、親は子供をひたすら愛しています(笑)
って考えていると、その無償の愛ってやつを、私はただひたすら享受する側から、与え続ける側になったんだ…ってわかるんですけれども、受け取れなくなったことをさびしく感じるのです。
うわー、私、こんなおばさんになるまで、親離れできてなかったんだな!とびっくりです(;-ω-)
いや、でも、とりあえずかさぶたができるくらいまでは乗り越えてきたんだから、普通じゃない?と思ってみたり。
そんなことを考え続ける昨今だったのですが、こんなことをぼんやり考え続けていられる私って、今、ものすごく幸せなんだなあ…と、昨日突然思ったのです。
今も私を大切に思ってくれる夫と、ごくたまーーーーーにかわいい態度(笑)の子供に、妹たちに、友達に、親戚に、ありがとう。
すべての愛情の源を与えてくれた両親に、ありがとう。
以上はどれもこれも『今の私の個人的な体験と考え』です。
いや、人生はそんな甘いもんじゃないし、死とか軽々に扱うな!とか、いい歳したババアが何語ってんの?とか思われたら申し訳ありません…
どうしても今、両親の死について考えたことを書いてみたかったのです。
突然こんな人生振り返って、もしかして死を覚悟してるの?なんか病気でも?と思われた方が、もしいらっしったら…
まったくそんなことはありませんので、どうぞご心配なく(*´ω`*)
むしろ、今まで抱えていたつらい気持ちを吐露して、すっきりした気分です。
だらだらした文章をここまで読んでくださいまして、ありがとうございました。
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