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Tuesday August 01 2017 category:

渚にて

お久しぶりです。
私はゲームしたり、某アニメ全25話を1日で見たり、アニメのあまりのおもしろさにゲーム内のイベントはどうでもよくなったり、小説を読んだり、マンガを読んだりしておりました。

久しぶりに『渚にて』を読みたくなって、2日がかりで読了したところです。
集中力が持たなくなった…


渚にて【新版】 人類最後の日 (創元SF文庫)

渚にて【新版】 人類最後の日 (創元SF文庫)

  • 作者: ネヴィル・シュート
  • 出版社/メーカー: 東京創元社
  • 発売日: 2009/04/28
  • メディア: 文庫




以下、かなりネタバレがありますので、未読のかたはご注意ください。
※個人的には、あらすじを知ったうえで読んでも、読後感にほとんど影響しない稀有な本とは思うのですが…
でもまっさらな状態で読みたいという方もいらっしゃるだろう…とも思うので;
私もたいていの本は、中身を全く知らない状態で読むほうが好きなんです。
不意打ちのネタバレはつらい…(;´・ω・)<つらい





副題?からわかるように、人類が滅亡に至る最後の瞬間(というか期間)を描いた小説です。
なんで滅亡するのかというと、核兵器が大量に使われて、放射性物質が致死量までまき散らされたから。
爆風や熱波で即死しなかった人類、投下地点よりずっと遠くにいた、核兵器使用には全く関係なかった国の人々もじわじわ死んでいく…そんな世界が舞台です。


えーと、そもそもは中国対ソ連(なつかしいなー)が始めるのです。
それがあっという間に、北半球の核保有国が応じて壊滅的な被害をもたらして…
我が日本は中国ともソ連ともお隣の国、多分、最初のほうで甚大な被害を受けて死滅してしまったんでしょうね(悲)…出てきません。

書かれた時代は、冷戦真っただ中、キューバ危機とかそういうのがあった時代。
今私がこの本を読んで想像するより、ずっとずっと核の恐ろしさが身近だったのでしょうね…
(いや、今だって北朝鮮のミサイルとか怖いんですけど…北海道のほんのすぐそばに落ちてますし)
ただ、この小説は、核兵器そのものやそれを用いる一握りの人の愚かしさや恐ろしさを、直接的に問うたものではありません。
こうなってしまった世界を描くことによって間接的に問いを浮かび上がらせ、「それってどうなの?君はどう思う?」という質問をかすかに(受け止めたい人・考えたい人に)投げかけている。
声高に言わないからこそ届く…ということもあるだろうし、逆にかえって重大な問題として受け止める人もいるだろうなぁ。
また、声高ではないからこそ、ほかの事柄について考えを巡らせるきっかけにもなっていると思います。
とても多面的に訴えてくる小説です。



私にとっては、このオーストラリアの人々がとても静かに運命というか、状況を受け入れていくのが本当に不思議で…
(小説の舞台はオーストラリア、北半球で北半球の国々が大量に核兵器を使用した挙句、南半球は単にその余波を食らっているという、まったくもって理不尽な状況)
そうかな、そんなにずっと今の社会を、生活を続けようとする人が大多数かな…?と、読むたびに思うのです。
けれども、「放射性物質が今住んでいる地域にも飛散してきて、そしてそのうち体に変調をきたして死ぬ」と言われても、とりあえず飛んでくるには間があるし、死ぬまでには生きてなきゃいけないし、生きるためには食べたりしなきゃならないわけで、食べるためには食料を生産したり、電気を作ったりしなきゃならないわけだし…
それに、「いずれあんたらも、私も、みんな死ぬよ」と言われて、いきなり現実味を帯びて考えられるか…と訊かれたら、「いやーうーん、『え?そうなの?』と思ってるうちに、みんなが騒ぎ出して、それで『あ、本当なんだ…』ってやっと思えるかも?」という気もする。
そう考えたら、とりあえずは今までどおりに生活しなきゃという人が多いのも、当たり前なのかも?

でも、この「みんないっぺんに死ぬ、私も俺もお前も」ということを免罪符?のように思って、略奪とか暴行とか、やりたいように好きなようにする人というのがそんなに少ないかといえば、作中で書かれているよりもっと多い気もするのです。

もうどうにもならないんだ…と従容と受け止めて今までどおり生活する人、あるいはそれから目を背けて何もないことのようにふるまいたい人、自暴自棄な気持ちに(時には)駆られたりもするんだけどやっぱり悪いことはできない(したくない)という人は、きっと多いと思うのです(多分に願望が入っていますが)
それでも、『どうせ死ぬなら何やってもいいんだ』という人はある数いて、そういう人たちがやらかすことというのは、とても目立つ。
数的には少くともこういう犯罪は、今までどおりにとりあえずやっていこうとする人たちにとって無視できないほどの事件ではないのかしら。
だって、今までどおりの生活が脅かされるんです。
事件が「もう今までどおりなんかじゃない、お前は近い将来死ぬし、愛する人も死ぬ、みんな死ぬ」と突き付けてくるのです。
パニックにならないわけがないと思うのですよね…
少なくともこれを無視することは難しいと思うのです。
悪意(のつもり)じゃなく、『もしかして、生き残れた時のために、家族のために、余分に』食料や医薬品を蓄えておこうとか、「放射線から守るには○○がいいんだって」というデマが流れるとか、もう危険域に達した地方からどっと避難民が押し寄せて限界を超えるとか…

そういうことは作中では起こらない。
多少、生活が変化していったりはするのです。
刹那的な趣味に走ってみたり、大酒を飲んでみたり、(終盤)仕事をエスケープしたり…
避難民が押し寄せたりもするのですけど、結局大多数は自分の元いたところに帰っちゃう。
おおむね電車や列車は(それなりに)きちんと走っているし、食料品は不足がない程度には出回っているし、水や電気も供給されてるし、街の清掃もされているし、救急車も機能してるし、(多分)救急車で搬送された患者を救う医者もいる。
雑貨屋さんの店員は丁寧だし、最後まで客に給仕する山小屋の主人もいる。
そして殺人は起こらない。
略奪と、飲酒の挙句のホームレス化は作中でもさらっと描かれるけど、殺人はない。
これってずいぶん美しい世界だなあと思います。
理想的な(?)人類滅亡じゃないかなって…


『渚にて』は、核兵器の愚かしさよりも、『人類はこのように気高くあってほしい』という願望というか、希望を書きたかったのではないかしら…?と思います。
「核兵器って愚かでしょ?危険でしょ?だからこんなものはないほうがいいよね?」っていう直接的なメッセージは、(誤解を恐れずに言うと)感じません。
人間は愚かで、いらん欲望のために戦争もするし、核兵器も使う(かもしれない)、見境なくなってしまったらなにもかも滅ぼす(かもしれない)。
そういう一面は確かにある。
でも、人の美しさの本質は『穏やかさ』であって、だから「核兵器」や「戦争」なんかはいずれ克服できる(なくしてほしい)、と訴えてるように感じるのです。



今、私はとても難しい世界に生きているなあと思います。
穏やかに生きることの難しさを、改めて感じます…
私は今大層楽しく生きていますけど、ミサイルが国土のどこかに落ちたら、テロが頻発したら、近隣の国で戦争が起こったら、きっと生活は一変するのでしょう。
遠い国の戦争や、テロ、難民になった人たちのことを、もっと考えなきゃならないんだろうと思います。
関心を持つこと。
多分、きっと私にできる唯一のことで、本当にちっぽけなことですけど、他国の、他人のことをわがこととして考えるための第一歩なのかなーって、そう思います。
私ごときが何を考えたって、何にも現状は変わらないけど、そう思って大多数の人が忘れたり、なかったことにして目をつぶったりしたら、今よりずっと悪くなってしまう(かもしれない)。


などと、考える本でした。


いやー関係ないんですが、ゲームイベントで加熱した頭を冷やすには、それ以上おもしろい創作物が有効であることを知りましたよ…
時間拘束する系のゲームにはかなり有効でした。
(別のことに時間を使ってしまうんで、もうどうでもよくなる)


タグ:Books Ringo

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